菅野力夫を扱った新聞、雑誌


納屋にあった宝物(産経EXPRESS)
菅野が残した写真を見つけたとき、若林さんは「心が震えた」という。昨年末、菅野が晩年に暮らし、彼の郷里でもあった福島県郡山市の遠縁方を訪ねた際のことだ。
若林さんは過去、ヒマラヤやチョモランマの遠征隊に参加した。
さらに、新旧の著名な探検家の足跡を写真でたどってきた。ここ数年は、菅野という「謎の探検家」の姿を追い続けていた。
「金目のものや珍しいものはないと思うよ」
そんな言葉にくじけそうになりながら、納屋に入った若林さんは、置きざらしの段ボール箱を見つけた。
開けてみると、菅野が撮った写真アルバムやネガがぎっしりと詰まっていた。
保存状態は極めてよかった。この納屋が吹き抜けのような構造で、風通しが良く、日光にもさらされなかったからだ。奇跡、だった。
菅野の世界探検は、1911(明治44)年から四半世紀以上にわたった。もちろん、順風満帆だったわけではない。
上海では熱病にかかって入院した。第6回探検旅行を挙行した際には、ハワイに上陸しようとして入国を拒否され、計画そのものが頓挫したこともあった。1936(昭和11)年、日米開戦の5年前のことだ。
菅野は1963(昭和38)年に、76歳で亡くなった。膨大な数の写真とポートレートを撮り続けたにもかかわらず、菅野は文章をほとんど残していない。講演会についても、「大盛況だった」と伝える新聞はあるものの、内容そのものについてはよく分かっていない。このため、戦後は忘れられた存在となった。
だが、写真は残った。
日本写真芸術学会の小沢健志名誉会長は「この写真には官ではなく、個人の目で見た真実がある。時代を記録するという写真の使命を考えたとき、菅野が残したこれらの写真は“宝物”といえるだろう」と話している。
- 産経EXPRESS 2007年7月7日(土)
未公開写真など数千枚発見
大正から昭和10年代前半にかけて一世を風靡(ふうび)した世界探検家、菅野力夫が探検した各地で撮影した未公開写真など数千枚が見つかった。著名人でありながら、彼の人物像や軌跡の詳細は謎につつまれ、戦後は忘れられた存在となっていた。それだけに識者は「知られざる近代史の断面をいまに伝え、これまでのいささか怪しげな菅野像を一変させる貴重な資料」としている。(関厚夫)
写真を確認したのは東京都在住のフリーカメラマン、若林純さん(49)。昨年末、菅野が晩年(昭和38年に76歳で死去)に暮らし、彼の郷里でもあった福島県郡山市の遠縁方を訪ねたさい、納屋に写真アルバムやネガが入った段ボール箱などが置きざらしになっているのを見つけた。
菅野は計8度にわたって「世界探検の旅」を行っている。確認された写真には東南アジアやインドにはじまり、ハワイやペルー、満州にモンゴル、樺太、シベリアの各地が撮影されている。中には南満州鉄道(満鉄)の車両工場や当時「埋蔵量世界一」とも称された中国・大同炭鉱の風景などの“珍品”もある。
一方で菅野はフリーの従軍記者兼カメラマンでもあった。昭和13、14年の「最後の探検」では、日本軍とともに、日中戦争の最前線をまわり、交戦する軍や廃虚となった市街地を写真に収めている。また彼の交友範囲は広く、高名な芸術家や政治家、右翼の大立者、軍特務機関の「歩兵大佐」との記念写真もあった。
菅野は帰国したさい、探検先の名所や名物と自分の姿を撮影した写真をカラー彩色した絵はがきを作製して国内で売ったり、講演会を開いたりして収入を得ていた。当時、絵はがき、後援会ともに、大好評を博し、絵はがきは現在でも、古書店などで10枚単位で数千円で販売されている。
だが、探検費用については、別にスポンサーがいた、ともみられている。
近代文化史の研究家でもあるSF作家、横田順彌さんの話「一部の写真を見ただけだが、その質の高さと菅野の人脈の広さに驚いている。私は彼を“軍事探偵” と考えてきたが、それよりも“日本初のフリーのフォトジャーナリスト”としてもっと高く評価されてもいいのではないか」
- 産経新聞 2007年7月7日(土)
故郷郡山で遺品大量発見
大正・昭和・・・世界を駆けた探検家
菅野力夫の足跡に光
故郷郡山で遺品大量発見
写真や絵葉書
大正から昭和にかけて世界を飛び回っていた郡山出身の「探検家」が没後四十五年目にあらためて注目を集めている。探検家菅野(すがの)力夫だ。菅野の研究を続けていた東京都のカメラマン若林純さん(五十)がこのほど、菅野の故郷の郡山市喜久田町で遺品を発見した。整理中だが、世界各地で撮影した写真のネガフィルム約五千七百枚や絵はがき、講演会の記録など総計一万点以上があった。若林さんは「菅野の足跡を知る貴重な資料。埋もれていた菅野の存在や功績に光を当て、多くの人に知ってもらいたい」と話している。
- 福島民報 2008年1月20日(日)



